ぼくのネタ帳

映画や日々の考えについて書いてます。

映画『ジョーカー』/ よかったけど、これはジョーカーじゃない

映画『ジョーカー』を見た。ほんとは公開翌日に『ジョン・ウィック:パラベラム』と連チャンで見たんだけど、感想がまとまらなかった。今更ながら、感想を書いておきたいと思う。

 

世間的には絶賛の声が多い。たしかに、ひとりの孤独な男が追い詰められ、我慢をやめてハッピーな犯罪者になる話として、大変よくできたいい映画だったと思う。ストレス満点で悲惨な暮らし⇨からの解放の、うしろめたい爽快感がすごかった。ホアキン・フェニックスの怪演も、相変わらずすごかった。

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が。ぼくが言いたいこと、不満なことはただ一点。これは「ジョーカー」じゃないってことだ。

 

ぼくはコミックのファンではないけど、ジョーカーにフィーチャーした作品の中でも最高傑作とされる「キリング・ジョーク」は読んだことがある。ジョーカー誕生とバットマンとの切なすぎる決着とを、同時に描いた作品だ。めっちゃよかった。また、映画版は、ティム・バートン版、クリストファー・ノーラン版それぞれのバットマン映画、およびデヴィッド・エアーの「スーサイド・スクワッド」は見た。御多分にもれず、「ダークナイト」のヒース・レジャーのジョーカーがいちばん好きだ。

 

もちろん、今回の「ジョーカー」はリブート(仕切り直し)なので、過去作ときちんとつながっていないとダメ、とは言わない。独自のジョーカー像でかまわない。

でも、どの作品のジョーカーも「バットマンの宿敵」であることは共通していた。ジョーカーは、狂っているけどバカじゃない。「倫理感」という尺度において狂っているのであって、「知能」という尺度では狂っていない。罠をはりめぐらし、バットマンを翻弄するだけの知性がある。だからこそ、腕力はなくとも、犯罪界の道化王子としてカリスマ視され、恐れられるキャラクターであったはず。

 

そこへ行くと、映画「ジョーカー」のアーサーは、こう言っては悪いけど「倫理感」と「知能」両方で狂っている

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髪を緑にしたり、口のまわりを赤く縁取ったり、たくさんのフォロワーを抱えたり、ブルース・ウェインとの因縁を作ったりと、どれだけたくさん「これはジョーカーです」という言い訳を並べたって、この頭の弱いひとがバットマンと渡り合う強敵になれるわけないではないか。

 

絶賛している人は、アーサーが「ジョーカー」として次の映画に出てくるところを想像してみてほしい(実際には多分DCユニバースには出てこないだろうけれど、あくまでも仮の話として)。かわいそうに、無残にボコられて捕まる姿しか想像できないはずである。そりゃそうだ。アーサーは最後まで弱者のままなんだから。たまたまカリスマに祭り上げられてしまっただけで、本人に能力はないんだから。

それなのに、安易にこういう「救われた」みたいな描き方をするのは、それこそ欺瞞ではないか?現実には、アーサーみたいな人は救われないし、たまたまが重なって映画のラストみたいに皆のヒーローになったとしても、ハリボテはすぐに壊れてしまう。

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あの車の上で「ジョーカー」が完成する瞬間は、たしかに美しい。だけど、あれはいわゆる「人生最高の瞬間」であって、持続するものではない。フォロワーたちだって、すぐに「本当に狂っているだけなんだ」って気づいてしまうはずだ。そういう後のことは全て無視して、「はい、これでジョーカーになりました」って、描き方としてすごくズルくないか?だったらジョーカーじゃなくて、はじめからオリジナル作品にしなよ。

あるいは、ジョーカーという悪のカリスマが既にいる世界で、アーサーはそのフォロワー、という立ち位置であれば、より納得感があったかも。

 

すごくできのいい映画だっただけに、見ている間ずっとアーサーがきっちり「ジョーカー」になってくれることを期待した。頼むから、何かひとつでいいから、ただの凶行ではなく「企み」を持って権力者たちを一泡ふかしてくれ、と思った。でも最後まで、たまたまうまく行くだけの人だった。

 

だからやっぱりぼくの結論は、いい映画だったけど、これはジョーカーではない。いや、いい映画なんだから、いいんだけどね。。